Привет( ・ω・)ノ
1月も終わりに近づき、ふとスケジュール帳を使い切りそうなことに気づきました(;´Д`)
毎年ロシアっぽい手帳を買っているのですが、今年はなかなか見つからずorz
紆余曲折を経て、ようやく入手することができました。
毎度おなじみ、チェブラーシカの手帳ですw
2013年9月からの手帳ということで、半額以下で購入することができました(∩´∀`)∩
ちなみに中には日本版の『チェブラーシカ』のイラストが描かれていて可愛いんだけど、次からはもっと余裕をもって探すことにしますorz
さて、1月25日はロシアではТатьянин день(タチアナの日)でした。
この日は学生たちの祝日とされていて、「ミス学生コンテスト」を始めとした様々なイベントが開催されているようです。
1月25日、タチアナさんたちと学生が自分たちの日を祝う
1月25日は有名な「タチアナの日」。初期キリスト教の受難者聖タチアナを記憶する日である。この日は現在では学生の日として祝われている。タチアナ(この名前はギリシャ起源で、「挙行者、発起人」を意味する)は、3世紀初頭の人で、ローマの執政官でローマ帝国の最高位の文官・武官の娘であった。タチアナの父親は隠れキリスト教徒であり、娘に神への信仰心を育てた。タチアナは伝統的な教育を受けたが、上流ローマ人としての人生を拒否し、キリスト教会に仕えることを選んだ。彼女はアポロン神殿で異教の偶像に詣でず、キリストを放棄しなかったために、猛烈に迫害された。
ロシアではこの古代ローマの受難者が崇拝されており、この不屈で賢く教養のある女性キリスト教徒はきわめてよく知られている。1755年、明敏で先見の明をもつシュワロフ伯爵が、母タチアナ・シュワロワの名の日に、エリザヴェータ・ペトロヴナ女帝対し、「祖国の全体の栄光のために」モスクワ大学創設の請願を提出した。もちろん、女帝は拒否することなく、勅令が署名された。時とともに受難者タチアナの記念日は、モスクワ大学だけでなくすべての学生の祝日となった。その際、酒盛りによって騒がしいタチアナの日という評判が立つほど、どんちゃん騒ぎが行われることとなった。
1870年代のいつからか、1年に1度、タチアナの日にモスクワの豪華レストラン「エルミタージュ」のホールは姿を変えた。「高価でつややかな家具は消え、床はのこぎりの屑が撒き散らかされ、素朴な木の机、腰掛け、曲木の椅子が運び込まれた…。ビュッフェやキッチンには冷えた料理、ウォッカ、ビールと安ワインしか残されていなかった…」―このように、ギリャロフスキーは危険なゲストたちを迎えるレストランの準備について描写している。
チェーホフはこう冗談を言っている。「今年はモスクワ川以外は全部飲み干してしまったよ。そのおかげで凍ってしまってね・・・アップライトピアノやグランドピアノは音をたて、オーケストラは止むことなく、『ガウデアムス(学生歌)』を歌いまくり、喉を痛めてしゃがれ声…あんまり楽しかったんで、ある学生は感情を持て余してチョウザメの泳いでいるため池で水浴びしたぐらいさ」。
「学生の群衆が夜遅くまでモスクワ中を歌いながら歩きまわり、3人、4人で一台の辻馬車で抱き合って乗りまわり、「スピヤーナ(酔っぱらい)」「タチヤーナ」などと韻を踏みつつ大声でわめき回っていたもんさ」―これもまたギリャロフスキーからの引用である。辻馬車についてはどうかというと、都合がいいのと、へべれけに酔った学生たちを落ちつかせるために、モスクワ市内のレストランのドアマンたちが学生たちの背中にチョークで住所を書き記した。その住所にしたがって酔っぱらいたちは引き離されたのである。
トルストイは、ある論文で怒りとともにこう書いている:「若者たちが老人のごとく酔っ払う、無作法極まりない乱痴気騒ぎ、そんな乱痴気騒ぎが毎年繰り返されるまでに至った・・・誰も侮辱せず、誰の邪魔もせず、酔っ払っているときも酔っ払った後も、自分の高揚した感情と思考を喜び、堂々と品行を判断し、評価すべきである」、と。
翌年、学生たちによって次のような歌詞の歌が考案された:「レフ・トルストイは俺らを罵る、罵る…飲酒を禁じる、禁じる。でも悪いのは俺らじゃない…じゃあ一体誰だ?」。そして学生たちの合唱は仲良く答える:「タチアナだ!」と。
公平を期して言うべきだが、ローマの受難者聖タチアナと結びついているのは乱痴気騒ぎだけではない。彼女を記念して寺院も建立されている。聖タチアナを記念した教会は、モスクワ大学のそばにすでに1791年に建設された。1812年の大火で教会は被害を受け、隣のグリゴーリー教会が一時的に大学の寺院を務めることとなった。1837年、タチアナ教会はパシコフ邸を改築した大学の新棟(建築家はチューリン)に新たに建立された。「こうして、『哲学の館』と同じ屋根の下、『祈りの館』ができたのです。『神秘の聖堂』は知識の住処に招かれて、そこへ足を踏み入れ、ここに基礎を起き、承認されたのです。宗教と学問が共にあり、人間を豊かにするために共に作用することを望んだのです」―このように、モスクワのフィラレート(ドロズドフ)府主教は1837年、モスクワ大学付属聖大受難者タチアナ寺院開基の説教で語っている。
1919年、寺院は閉鎖され、モホヴァヤ通りで教会として再開したのは1995年1月25日のことであった。この教会は多くのもの、多くの人々を見てきた:ここではゴーゴリとグラノフスキーの葬儀(1853年)、ソロヴィヨフの葬儀(1879年)、フェートの葬儀(1892年)、ストレトフの葬儀(1896年)、トルベツコイの葬儀(1905年)、クリュチェフスキーの葬儀(1911年)が行われ、何世代もの学者や文化活動家が聖受難者タチアナ寺院に足を運んだのである。
全てのタチアナさん、名の日おめでとう!学生さんたち、祝日おめでとう!
サメのいる池に飛び込み、「スピヤーナ(酔っぱらい)、タチヤーナ」などと韻を踏みつつ高歌放吟して回るとかwww
ものすごい近所迷惑な気がするけれど、やってる方はきっと楽しいんでしょうね。
「受難者の日」がよもやこのような日になるとは・・・
タチアナさんにとってはこれもある意味受難な気がするけど(;´Д`)
ところで、「学生の日」の由来となったモスクワ大学では、500リットルもの蜜酒が振る舞われたそうですね。試験期間明けということで、さぞ楽しかったことと思います。
いいなあー、学生時代に戻りたい(・ε・)
こういう大騒ぎって、年取るとなかなかできないからちょっとうらやましいです。
1月も終わりに近づき、ふとスケジュール帳を使い切りそうなことに気づきました(;´Д`)
毎年ロシアっぽい手帳を買っているのですが、今年はなかなか見つからずorz
紆余曲折を経て、ようやく入手することができました。
毎度おなじみ、チェブラーシカの手帳ですw
2013年9月からの手帳ということで、半額以下で購入することができました(∩´∀`)∩
ちなみに中には日本版の『チェブラーシカ』のイラストが描かれていて可愛いんだけど、次からはもっと余裕をもって探すことにしますorz
さて、1月25日はロシアではТатьянин день(タチアナの日)でした。
この日は学生たちの祝日とされていて、「ミス学生コンテスト」を始めとした様々なイベントが開催されているようです。
1月25日は有名な「タチアナの日」。初期キリスト教の受難者聖タチアナを記憶する日である。この日は現在では学生の日として祝われている。タチアナ(この名前はギリシャ起源で、「挙行者、発起人」を意味する)は、3世紀初頭の人で、ローマの執政官でローマ帝国の最高位の文官・武官の娘であった。タチアナの父親は隠れキリスト教徒であり、娘に神への信仰心を育てた。タチアナは伝統的な教育を受けたが、上流ローマ人としての人生を拒否し、キリスト教会に仕えることを選んだ。彼女はアポロン神殿で異教の偶像に詣でず、キリストを放棄しなかったために、猛烈に迫害された。
ロシアではこの古代ローマの受難者が崇拝されており、この不屈で賢く教養のある女性キリスト教徒はきわめてよく知られている。1755年、明敏で先見の明をもつシュワロフ伯爵が、母タチアナ・シュワロワの名の日に、エリザヴェータ・ペトロヴナ女帝対し、「祖国の全体の栄光のために」モスクワ大学創設の請願を提出した。もちろん、女帝は拒否することなく、勅令が署名された。時とともに受難者タチアナの記念日は、モスクワ大学だけでなくすべての学生の祝日となった。その際、酒盛りによって騒がしいタチアナの日という評判が立つほど、どんちゃん騒ぎが行われることとなった。
1870年代のいつからか、1年に1度、タチアナの日にモスクワの豪華レストラン「エルミタージュ」のホールは姿を変えた。「高価でつややかな家具は消え、床はのこぎりの屑が撒き散らかされ、素朴な木の机、腰掛け、曲木の椅子が運び込まれた…。ビュッフェやキッチンには冷えた料理、ウォッカ、ビールと安ワインしか残されていなかった…」―このように、ギリャロフスキーは危険なゲストたちを迎えるレストランの準備について描写している。
チェーホフはこう冗談を言っている。「今年はモスクワ川以外は全部飲み干してしまったよ。そのおかげで凍ってしまってね・・・アップライトピアノやグランドピアノは音をたて、オーケストラは止むことなく、『ガウデアムス(学生歌)』を歌いまくり、喉を痛めてしゃがれ声…あんまり楽しかったんで、ある学生は感情を持て余してチョウザメの泳いでいるため池で水浴びしたぐらいさ」。
「学生の群衆が夜遅くまでモスクワ中を歌いながら歩きまわり、3人、4人で一台の辻馬車で抱き合って乗りまわり、「スピヤーナ(酔っぱらい)」「タチヤーナ」などと韻を踏みつつ大声でわめき回っていたもんさ」―これもまたギリャロフスキーからの引用である。辻馬車についてはどうかというと、都合がいいのと、へべれけに酔った学生たちを落ちつかせるために、モスクワ市内のレストランのドアマンたちが学生たちの背中にチョークで住所を書き記した。その住所にしたがって酔っぱらいたちは引き離されたのである。
トルストイは、ある論文で怒りとともにこう書いている:「若者たちが老人のごとく酔っ払う、無作法極まりない乱痴気騒ぎ、そんな乱痴気騒ぎが毎年繰り返されるまでに至った・・・誰も侮辱せず、誰の邪魔もせず、酔っ払っているときも酔っ払った後も、自分の高揚した感情と思考を喜び、堂々と品行を判断し、評価すべきである」、と。
翌年、学生たちによって次のような歌詞の歌が考案された:「レフ・トルストイは俺らを罵る、罵る…飲酒を禁じる、禁じる。でも悪いのは俺らじゃない…じゃあ一体誰だ?」。そして学生たちの合唱は仲良く答える:「タチアナだ!」と。
公平を期して言うべきだが、ローマの受難者聖タチアナと結びついているのは乱痴気騒ぎだけではない。彼女を記念して寺院も建立されている。聖タチアナを記念した教会は、モスクワ大学のそばにすでに1791年に建設された。1812年の大火で教会は被害を受け、隣のグリゴーリー教会が一時的に大学の寺院を務めることとなった。1837年、タチアナ教会はパシコフ邸を改築した大学の新棟(建築家はチューリン)に新たに建立された。「こうして、『哲学の館』と同じ屋根の下、『祈りの館』ができたのです。『神秘の聖堂』は知識の住処に招かれて、そこへ足を踏み入れ、ここに基礎を起き、承認されたのです。宗教と学問が共にあり、人間を豊かにするために共に作用することを望んだのです」―このように、モスクワのフィラレート(ドロズドフ)府主教は1837年、モスクワ大学付属聖大受難者タチアナ寺院開基の説教で語っている。
1919年、寺院は閉鎖され、モホヴァヤ通りで教会として再開したのは1995年1月25日のことであった。この教会は多くのもの、多くの人々を見てきた:ここではゴーゴリとグラノフスキーの葬儀(1853年)、ソロヴィヨフの葬儀(1879年)、フェートの葬儀(1892年)、ストレトフの葬儀(1896年)、トルベツコイの葬儀(1905年)、クリュチェフスキーの葬儀(1911年)が行われ、何世代もの学者や文化活動家が聖受難者タチアナ寺院に足を運んだのである。
全てのタチアナさん、名の日おめでとう!学生さんたち、祝日おめでとう!
サメのいる池に飛び込み、「スピヤーナ(酔っぱらい)、タチヤーナ」などと韻を踏みつつ高歌放吟して回るとかwww
ものすごい近所迷惑な気がするけれど、やってる方はきっと楽しいんでしょうね。
「受難者の日」がよもやこのような日になるとは・・・
タチアナさんにとってはこれもある意味受難な気がするけど(;´Д`)
ところで、「学生の日」の由来となったモスクワ大学では、500リットルもの蜜酒が振る舞われたそうですね。試験期間明けということで、さぞ楽しかったことと思います。
いいなあー、学生時代に戻りたい(・ε・)
こういう大騒ぎって、年取るとなかなかできないからちょっとうらやましいです。